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中国関連コラム 日本人弁護士が見た中国
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2007/09/05
上海の空、東京の空 四日市公害裁判提訴(1967年)から40年後の今に想う
加藤洪太郎
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■ 久しぶりの上海
2007年7月、数年ぶりに上海を訪れた。
この間の発展・変貌ぶりを確認するとともに印象強かったのが大気の様子である。朝・昼と太陽は昇って天空を駆けているのだが、薄ぼんやりとしていてカラッとしたところがない。ウン、これが新聞などで報道されてる中国の課題の一つか、と実感。
■ 誰もが願う青空
北京オリンピック(2008年)や上海国際博(2010年)を間近にひかえ、何とか青空を回復しようと誰もが願っている。「中国はこんなもんだ」などと諦めてしまわないで、皆々、協力し合って回復できるといい。人間が作りだした大気汚染であるので、人間がこれを克服できないはずはない。
■ 翻って、日本
日本の場合はどうなのか。「目くそ鼻くそを笑う」の喩え通りにならぬよう、あらためて由来をふりかえってみた。
例えば、筆者の住む愛知県の瀬戸市や、オフィスのある名古屋市の中区は、いまでは青空がスッキリと見える。が、これは直接的には、名古屋南部で発生した大気汚染公害に裁判を起こして立ち向かった名古屋南部地域の住民の方々の、そのお陰なのだ。
日本の産業の重化学工業化や車社会化とともに名古屋市の南部工業地帯は巨大な大気汚染地帯となってしまった。そこに住む人々は気管支や肺などの呼吸器を甚だしく害され、生死の苦しみの中からやむにやまれず裁判闘争に立ち上がった。その不屈の運動のお陰で、汚染源に規制が加わり、大気汚染の広がりも抑制されたのである。
この運動がもしなければ、汚染は広がり、やがては周辺地域である名古屋中・北部そして東部から瀬戸市などの空も薄どんよりとしてしまったに違いない。
日本全体では、こうした大気公害を糾す裁判は1967年提訴の四日市公害裁判に始まる。5年後の1972年、地方裁判所は発生源の責任を問う画期的な判決を下し、これにより大気汚染防止法による『総量規制』への道が開かれた。
首都・東京都の大気汚染についても訴訟が起こされ、何と、それがその克服のための協定締結に至って解決したのは2007年、今年のことなのである。
■ 法律家の役割
四日市公害訴訟提訴から実に40年という長年月を要して尚も大気公害を克服しつつある過程にあるのが日本。振り返ってみれば、その困難な道のりを、日本の場合は裁判を重要なファクターとしつつ切り開いてきたという特長がある。
こうした裁判を引き受けて献身的に頑張った日本の弁護士達にあらためて尊敬の念を抱くとともに、法律家に科せられた使命の大きさと重大さに心がひきしまる。
上海の空気を吸ったり吐いたりするたび、中国はどのような道筋を経て青空を回復するのか、中国の律師の方々は如何なる役割を果たされるのか、そして、日中両国の弁護士・律師はどのように協力しあえるのか、頭の中を想いが駆けめぐってやまなかった。
(2007年8月執筆)
執筆者プロフィール
加藤洪太郎 (カトウコウタロウ)
1944年愛知県瀬戸市の陶磁器問屋に生まれる。後継ぎせず24歳で弁護士になったが、地域経済の盛衰にどうしても無関心ではいられない。
中間法人・日中法務交流協力日本機構会長/愛知県中小企業研究財団副理事長
所属して議長を務める名古屋第一法律事務所(http://www.daiichi-law.gr.jp/)は、創業1968年、「互いの得意と世代を結ぶネットワーク型事務所」で、弁護士25名・事務局員27名の現勢。
著作は「協力と創造の新契約システム」他、共著に「21世紀型中小企業戦略へのヒント」、「グローバル化に挑戦する中小企業の連帯」、「ザ・弁護団」など。
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